- 尖閣に関する中国語の資料を日本語に翻訳して掲示しています -
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【中国政府によって22年も放置されてきた钓鱼岛】

(※本稿はある中国人がブログに書いていたものを転載して和訳したものです)

衆知の通り,日本では“钓鱼岛”のことを“尖阁群岛”と呼んでいる。 しかし50、60年代の中国地図ではあろうことか皆“尖阁群岛”と表記され日本領土とされている。 人民日報1953年1月8日第4版では“尖阁群岛”を沖縄の一部としている: 衆知の通り,日本では“钓鱼岛”のことを“尖阁群岛”と読んでいる。 しかし50、60年代の中国地図ではあろうことか皆“尖阁群岛”と表記され日本領土とされている。 (※反復部分は原文ママ)

人民日報1953年1月8日第4版では“尖阁群岛”を沖縄の一部としている:

人民日報1953.01.08s原版

※日本向け注:以下の地図の存否の裏は取っていないので、使用は要注意。 あくまでも元記事の翻訳としての掲示です。

1953年亜光与地学社中国地図(台湾・福建省ともに钓鱼岛を含んでいない):

1953年亜光与地学社中国地図

世界地図集1958年版(大陸),注)図中“尖阁群岛”と表記:

世界地図集1958年版

日本の右翼勢力は、中国は、日本にずっと遅れて1970年12月になってはじめて钓鱼岛に対して主権を有すると言い出した、と主張する。 そうであれば話は簡単。 1949年から1970年にかけて中国政府発行の地図に钓鱼岛が中国領と書いてありさえすれば、日本右翼のデマカセを粉砕できる。

しかし残念なことに、1949年の建国以後,钓鱼岛は中華人民共和国によって22年も放置されてきた: 【1958年中華人民共和国地図集,地図出版社,台湾分図】 以下、台湾省地図部分の右側、東経122度30分のところで切断していることがわかる。 钓鱼岛は東経123度29分、赤尾嶼は124度34分(これは切れているところから右側に100~200kmくらいだろう)に位置する。 これは明らかに钓鱼岛が中国領土ではないことを意味する。

1958年中華人民共和国地図集,地図出版社,台湾分図

【1960年世界地図集,地図出版社,日本分図】 この図の中には钓鱼岛のことを日本語表記(尖閣群島の鱼钓岛)とされていることが見て取れる。 国境線が台湾の海岸に平行に引かれ、钓鱼岛と赤尾嶼が日本の琉球群島に属していることを読者に明確に示している。 (※中国名=钓鱼岛/日本名=鱼钓岛)

1960年世界地図集,地図出版社,日本分図

【1967年中国地図册普及本,地図出版社,台湾分図】1958年の図と同様,台湾省の右側、東経122度10分で切断され,钓鱼岛は中国領土とは見なされていない。

1967年中国地図册普及本,地図出版社,台湾分図

【1972年中国地質図,地図出版社,行政簡図】1971年、中国地図は再測量を行った。 この後3,4年の内に、中国の各種地図はこの版を根拠に移行して、1970年12月の主権声明という政治的事実を反映することとなった。 当該移行とはつまり、1) 钓鱼岛と赤尾嶼を①②と記し(差替版に間に合わなかった為)、その後に下面の注釈に①钓鱼岛,②赤尾嶼とした。 2) 台湾省の地図の右端を、東経125度の後ろで切った。つまり右方向に3度移動させることで、この2島を中国領に編入した。 その後現在まで、①②は使われなくなり、地図上に直接名称を書くようになった。 ここに至り、钓鱼岛は1971年になってやっと中国地図上に復帰したのである。

1972年中国地質図,地図出版社,行政簡図

これでも中国地図と中国政府は、钓鱼岛が我々の領土だと言えるのだろうか?

>>他のページも見る
1:魚釣島は我が国の領土?(地図)
2:人民日報(1953.1.8): “尖閣諸島は沖縄に含まれる”
3:周恩来(1951.8.15): “これらの島々が日本を離脱した規定は過去の如何なる国際協定を見てもない”
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